丸太を挽き、乾かし、強度を確かめる製材工場。図面を読み、建物ごとに壁や屋根のパネルを組み上げるパネル工場。ヤマムラの原点であるこれらの現場の仕事は、決して工場の中で完結するものではありません。前編では、木の香りが漂う工場の空気と、そこで働くメンバーのリアルな声をお届けしました。 後編では、世界中を巻き込んだ「ウッドショック」という未曾有の危機が工場にもたらした意識の変化、そして約700坪の大型寮や八丈島への木材供給など、記憶に刻まれた挑戦の数々を紐解きます。部署の垣根を越えた「連携」と、次の世代へ受け継ぎたい「精度」へのこだわり。ヤマムラがこれから描く、木造建築の未来図に迫ります。
ウッドショックが教えてくれた、一本の木を無駄にしない覚悟
この10年を振り返る時、座談会で何度も出てきたキーワードが「ウッドショック」でした。輸入材の供給が突如として不安定になり、価格が高騰したあの時期、日本の建築業界は大きな混乱に見舞われました。しかし、その危機は同時に、これまで当たり前のように使われてきた外材への依存を見直し、日本の豊かな森林資源である国産材の価値を再認識する強力な契機ともなりました。地元の山で育った木を、地元の工場で加工し、地元の建築に使う。その「地産地消」のサイクルが、いかに重要で、いかに持続可能であるかを、業界全体が痛感したのです。
「外材が入ってこない、価格が跳ね上がる。あの時は本当に大変でした。でも、だからこそ『国産材を安定して使おう』という機運が高まったのも事実です」 木建材部で営業を担うメンバーは、当時の緊迫した状況をそう振り返ります。外材の供給が戻ると需要も落ち着きましたが、国産材を安定して使う方法を探る動きは残りました。製材工場ではその機会を逃さず、プレカット会社などへ国産材を提案し、限られた寸法の材を定期的に供給する体制を整えてきました。

価格が大きく動いたことで、工場の中でも「歩留まり」への意識がこれまで以上に強くなりました。一本の木から、使える部分をなるべく多く取る。端材はパレットなどに回し、捨てる部分を極限まで減らす。乾燥機に使う灯油の価格も上がるなか、材料だけでなく加工に必要なエネルギーまで含めて、あらゆる無駄を見直していきました。
ウッドショックの余波は、単なる材料不足にとどまらず、地域経済全体のサプライチェーンの脆弱性を浮き彫りにしました。これまで当たり前のように海外から安価な木材が届くことを前提に組まれていたビジネスモデルが、一瞬にして崩れ去ったのです。その中で、地元の山から木を切り出し、自社で製材・乾燥・加工までを一貫して行えるヤマムラの体制は、地域の工務店にとってまさに希望の光でした。「ヤマムラさんに頼めば、なんとかしてくれるかもしれない」。そんな切実な声に応えるべく、工場はフル稼働を続けました。この経験は、利益を追求するだけでなく、地域社会のインフラとしての責任を果たすという、ヤマムラの企業としてのアイデンティティを再確認する重要なプロセスでもありました。
「値段が上がった時期があったので、一本の木をなるべく無駄なく使うことを、工場と以前より細かく相談するようになりました」 不安定な時期に、工務店やゼネコンから「材料は入るのか」と悲痛な相談を受けた営業担当は、自社に工場があることで応えられた場面があったと振り返ります。工場は、ただ木材を加工するだけの場所ではなく、地域の建築を止めないための「最後の砦」としての役割も果たしていたのです。もしヤマムラに自社工場がなく、すべてを外部からの仕入れに頼っていたら、あの混乱期を乗り切ることはもっと困難だったでしょう。自前の生産拠点を持つことの強みが、これほど明確に証明された時期はありませんでした。

約700坪、2か月。過酷な挑戦が工場を強くした
パネル工場で特に記憶に残っている仕事として挙げられたのは、秋田県小坂町で進んだ大規模な企業寮のプロジェクトでした。規模は約700坪。形状も特殊で、別の物件と時期が重なるなか、受注から出荷までおよそ2か月という限られた工程で、大量のパネルをつくらなければなりませんでした。
「たぶん、あれが一番大変でした。けれど、今思い返すと充実していましたし、工場として大きく成長できた仕事だったと思います」と、図面・積算担当の佐々木さんは語ります。

大きな仕事は、決して一人の技術だけでは進みません。図面から数千、数万という膨大な数の部材を正確に拾い出し、1分1秒を争う緻密な工程を組み、敷地内に点在する3つの工場へ各人の適性を見極めて適切に人を配置し、製作の進み具合をリアルタイムで把握しながら次の作業を柔軟かつ迅速に調整する。営業は現場の納期をシビアに確認し、工場は品質を保ったまま間に合わせる方法を必死に考えます。忙しい時ほど、それぞれの判断が一本の太い工程に束ねられていくのです。
工場管理の担当者は、朝に注文とその日の予定を確認し、人員を割り振ってから各工場を見回ります。夕方には作業者が戻り、進捗を確認する。目立つのは完成したパネルですが、その背後では毎日、細かな組み替えと瞬時の判断が繰り返されています。
また、製材工場から送り出された材は、建物の柱や梁になり、時には遠く離れた土地へ渡ります。ある公共施設では、多くのJAS材を出荷し、完成前の現場を見学したことで、自分たちが加工した木がどのように使われたのかを一続きで見ることができたといいます。 さらに、オリンピック・パラリンピック関連施設で使われた木材を再加工し、新しい建物の構造材としてつなぐ仕事にも携わりました。八丈島の歴史民俗資料館の再生では、島へ材を送り、東京支店が施工図や現地施工を支えました。船で海を越えた木が、かつて庁舎として使われた建物の次の時間を支えていく。製材から建物再生までを持つ会社だからこそ生まれた仕事でした。
八丈島の歴史民俗資料館のプロジェクトも、ヤマムラの総合力が発揮された象徴的な事例です。かつての庁舎として親しまれた建物を再生するという歴史的意義の深い仕事において、遠く離れた南の島へ山形から加工した木材を送り届けるというミッションは、物流面でも大きな挑戦でした。しかし、製材工場が丹念に仕上げた木材が船に揺られて海を渡り、東京支店のメンバーが現地で図面を引き、現地の職人たちと協力して建物を蘇らせていく。その一連のダイナミックな流れは、「製材から施工まで」を一気通貫で担えるヤマムラだからこそ実現できた奇跡のような連携プレーでした。

現場で愛される「精度」と、次の60年へつなぐバトン
これからのパネル工場で何を大切にしたいか。責任者の星川さんの答えは、前編から一貫して明快でした。
「まずは精度です。多少時間がかかっても、スピードより精度を重視したい。現場で汗を流す大工さんに『やっぱりヤマムラのパネルは精度が高くて組みやすいな』と心から思ってもらえるものをつくり、その信頼関係を築いたうえで、少しずつ生産のスピードを上げていきたいです」
ここでいう品質は、パネルの寸法だけを指しません。現場で使う順番に合わせてラックへ載せること。雨や雪から守るブルーシートの掛け方。大工が荷ほどきし、必要なパネルを迷わず取り出せること。工場から見れば小さな違いでも、現場では作業のしやすさを左右します。現場経験のある作業者は多くないからこそ、「届いた時に、どうなっていれば助かるか」を想像する。図面通りの寸法を出す精度と同じくらい、あるいはそれ以上に、そのパネルを受け取る「相手」の状況を思いやる豊かな想像力が求められます。それは単なるモノづくりを超えた、人と人とのコミュニケーションの形とも言えます。
次の10年、20年へ向けた課題として、全員が口を揃えて挙げたのは「人材育成」でした。住宅着工が減り、建築や木材の仕事を担う人も少なくなる中で、工場の技術をどう受け渡していくか。最新の設備があっても、木を見て判断し、機械を扱い、工程を組める人がいなければ、仕事は続きません。
パネル工場では20代から40代の働き手が増え、世代が若返っています。責任者は、工場の建物をさらに広げることよりも、今いる人たちが技術を身につけ、品質を高めることを優先したいと話します。 「若い人たちが技術を身につければ、あと30年、40年と続けていける。そこを強みにするために、育成を急がなければならないと思っています」
一方、製材工場は少人数で、若い担い手の確保がより切実です。JAS認証を毎年維持し、強度が明確な県産材を安定して出し続けるには、測定や記録を含む一連の仕事を次の人へ確実に渡す必要があります。JAS機械等級、大断面、山形県産材。設計事務所や同業者に工場の役割を知ってもらう発信も、受注を増やすためだけでなく、ここにどんな仕事があるのかを伝える大切な入口になります。

「人材育成」という課題に対して、ヤマムラはただ危機感を抱いているだけではありません。熟練の職人が持つ「暗黙知」を、いかにして若手が理解しやすい「形式知」へと変換していくか。そのための取り組みも少しずつ始まっています。例えば、木材の良し悪しを見分けるポイントや、機械の微妙な調整方法など、これまで「見て盗め」とされてきた技術を、できる限り言語化し、共有する努力が続けられています。また、若手社員が失敗を恐れずにチャレンジできる風土づくりも重視されており、ベテランと若手が意見をぶつけ合いながら、新しい加工方法を模索する場面も日常的に見られるようになりました。

原点は、後ろにあるのではなく、次へ進む手の中にある
非住宅の木造建築、公共施設、地域の建物再生。その先には、まだ工場の技術を生かせる仕事が広がっています。住宅が減るから木の仕事も減る、と決めつけるのではなく、製材から施工までをつなげられる会社の強みを、別の建物や用途へ広げていく。座談会の終盤では、そんな前向きな未来の方向性も語られました。
「地域で、木材から建材、住宅設備まで一社でそろえられる会社は多くありません。材料だけでなく、工務店さんや職人さんとのつながりも、これから先へ残していきたいです」と、営業担当の下山課長は力強く語ります。
50周年の記念誌を囲むと、長く働くメンバーから「この頃は若かった」「顔ぶれは意外と変わっていない」と笑い声が上がりました。その一方で、当時まだ入社していなかった人や、ここ数年で加わった人も、いま同じ工場を動かしています。
丸太を挽く製材所から始まったヤマムラは、設計や施工、建物再生、まちづくりへと仕事を広げてきました。それでも、建物の手前には一本の木があり、それを見極める人がいます。図面を読み、正確に組み、使う人の手元を想像する人がいます。
「ヤマムラさんの木は、やっぱりきれいだ」。 その言葉を次の世代も誇りを持って受け取れるように、技術を測り、記録し、教え、つないでいく。ヤマムラの原点は、過去の一地点ではありません。製材機の前に立つ人、パネルを組む人、材料を届ける人の手の中で、今日も次の建物へ向かって力強く脈打っています。
座談会を終え、再び工場の扉を開けて外に出ると、夕暮れの空の下で製材機の音が静かに響き続けていました。60年という長い歳月の中で、時代は変わり、求められる建築の形も大きく変化してきました。しかし、一本の丸太と真摯に向き合い、そこから最高の材料を削り出そうとする職人たちの情熱は、創業当時から何一つ変わっていません。むしろ、JAS認証という新たな武器を手にし、環境問題への意識を高めた現在のヤマムラは、過去のどの時代よりも力強く、そしてしなやかに未来へと歩みを進めています。
